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最初の出会いは、『声』だった。(2)

 俳優とは、その人物のキャラクターやオリジナリティを表現する仕事であると同時に、脚本や監督の意図といった「他者性」に身を捧げなければならない仕事だ。そこで役者は素材となり、作品のメッセージにみずからの肉体を提供する生贄となる。

 おそらく(ルックスから察するに)生粋のマゾヒストであるMr.ヴァレンにとって、俳優という仕事は天職であっただろう。しかし彼は、もっと鋭く、自分自身を表現したいと切望する。痛くて、切なくて、ときには目をそむけたくなる「本当のこと」。それは、実に彼の人生の中にあるすべてのものだった。自分のありのままを正直にあらわし、共感を得ることこそがこの世に生まれた使命・・・彼の中には、おそらくそんな直観がひらめいたのではないだろうか?

 その直観は正しかった。

 クリスチャン・ヴァレンの音楽は、これほど極私的な主題をあつかっていながら、大勢のリスナーを釘付けにする不思議な引力を放っている。極端にプライベートなものは、逆に、瞬時に多くの人々をひきつけてしまうのだ。人と人との間にある、目に見えない膜を越えて、ダイレクトに心の中心に飛び込んでくるからだ。

 メキシコの画家、フリーダ・カーロの描いた「痛い」自画像が、彼の夫、ディエゴ・リベラの描いた政治的プロパガンダ絵画より、21世紀に残っているのがいい証拠だ。フリーダが描いたのは、夫の浮気に苦しみ、無念の妊娠中絶に苦しみ、生涯に数十回もの外科手術を行った肉体的痛みのシンボルとしての自画像だった。彼女が人生で感じたごく個人的な痛み――――それは、観る者の人生に、瞬間的に入り込んでくる。表現とコミュニケーションにおける、奇跡の瞬間だ。その奇跡を感じたくて、人は人の表現をむさぼり、心を放浪させながら求め続けるのだ。フリーダのセルフ・ポートレイトと同じように、ヴァレンの「セルフ・アルバム」も時代を超えて生き残っていくかも知れない。

 タイトルは直截的にしてポエティック。のけぞるような原題は「LISTEN WHEN ALONE」だ。確かに、こんなアルバム他人と一緒に聴く気がしない。一人になった時間に、とっぷり孤独をかみしめながら夜の闇の中へトリップしたい作品だ。この声は、そんなマゾヒスティックな鑑賞スタイルを促しているようでもある。元々M気の強い筆者にとっては、困ったアルバムなのである。

 ノルウェーでは、発売わずか5日でゴールドを記録。現在プラチナを超えているというオバケ・アルバムだ。誰もが彼の顔と名前を知っている本国と違って、他国ではさまざまな異なった反応を呼ぶだろう。だが、彼のキャリアを知らない、ということは、この音楽を理解するのに何のハンディにもならない。このアルバムは「普遍的」でありながら、ある意味とても異端な音楽なのだ。ミュージシャンが、他のミュージシャンに聞かれることを想定しながら作った痕跡が全くない。クリスチャン・ヴァレンにとって伝えたいことはメッセージであり、エモーションであり、音楽的な虚栄や虚飾ではないのだ。彼の音楽においては、北欧ポップス、というカテゴライズまで無効になってしまうような気がする。ジャンルやナショナリティなど関係ない。とことん裸になること、ありのままの衝動を伝えること・・・シンプルさに徹したサウンドは、容易に国境を越え、コンプレックスに苦しむ人々、愛の不毛に悩む人々・・・つまりこの世の大部分の人々のハートに染み込むだろう。


CD解説 『Listen When Alone / ある男の物語』 / 小田島 久恵

日時: 2007年03月23日 17:01
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