日本史が好きになってきたって話。
もともと、歴史に興味はなかった。ここからは、歴史が好きな方からすれば、浅い話となる事をご容赦頂きたい。 私の場合、30歳を超えたあたりから、歴史に徐々に関心が高まってきた。
と言っても、博識をつけたい等の高い目標等はなく、歴史を通して日本の移ろいを知る楽しさと、その終着地点でもある「現代社会」へ至るメカニズムにも似た、その経緯を知ることが楽しいからと言ったところだ。ある種、エンターテイメントのドラマや映画を見るくらいのレベルの話である。
そして同時にいつも思う事は、歳を重ねていくと、だんだんと義務感や使命感の様な大義名分はなくとも、少しずつ日本を知りたくなるものなのか、とも感じている。
日本史においてメジャー中のメジャーどころを出してお恥ずかしいが、源平合戦や三英傑、明治維新などの、時代の潮流の中で生まれる変革やパワーゲームは、知れば知るほど面白くワクワクとさせる。(南北朝時代は、絶賛勉強中。)
例えば、信長を起点に話を始めると、織田信長がいて、本能寺の変が起こり、後に羽柴秀吉が天下を取り、太閤殿下となる。しかし、その巨星が落ちるとともに、時勢はまた変わり、徳川幕府の誕生へと至る。
「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり。」と言った家康。しかし、徳川幕府はその後、約265年続いていく。そして、長く続いたかの様に見えた徳川の世にも、尊王攘夷は起こり、大政奉還へと変革の駒を進めていく。
源平の世から続く、武家社会の終焉。乱暴かもしれないが端的にまとめるとこういう事だったのであろう。
但し、歴史の細部には、諸説いくつかの筋道が存在しており、史実に潜むミステリーにもなっている。それは、立場によって考え方の違いや、思惑などもあっただろうし、誰にフォーカスを当てた内容かにもよるだろう。そのひずみの様なものが、次代に残した文献ごとに差異を生じさせたのではないだろうかと思われる。
しかし、史実の精度を憚るよりも、伝わる歴史の中で綴られた物語に、この言葉は実にしっくりとくる。
「現実は小説よりも奇なり」
真相の枝葉を探究したければ、電車の中でもカフェにいても、Googleでサクッと調べる事もできる。これ程楽しく、奥深い対象もないだろう。また、現代の創作エンターテイメントの世界でも、ヒット作の中に歴史をなぞられている物語も多くあるのではないだろうか。
例えば、こんな楽しみ方もある。先日、秋好に付き合ってもらい、歴史話をしていた。その際に、私が勝手に創作したストーリーがこんな内容だった。
*あくまでも、雑談レベルのたわいも無い内容である事をご了承頂きたい。
<ザ・フィクション・ソニック劇場>IEYASU
命をかけて乱世を終わらせた家康は、もしかしたら、こんな事を考えていたかもしれない。
「徳川幕府の誕生はひとつの過程に過ぎない。いつか、某の作った世から、日本をより良くするために、革命児は現れる!そして、その革命児は、この徳川幕府をぶっ壊すだろう。その土俵は作ってやったぞよ!」と・・・。
それから、約265年の月日は瞬く間に過ぎ去り、大政奉還へと繋がっていく。その革命児達の中にいた男の名は、坂本龍馬。
こんな空想に想いを馳せると、徳川家康がまた違って見えると共に、歴史がまた違った輝きを見せる。
定説とされる坂本龍馬を起点に考えれば、大政奉還は凄い功績だったのもしれない。しかし、私の創作から考えると、坂本龍馬が功績を作りやすい様に、200年以上前に家康が仕掛けを作っていたとしたら・・・。そう考えると、鳥肌が立つくらいに面白い!
さて、日本史とは実際には、あまりにも大きな潮流ゆえ、細部に至る現実味は確かに捉えにくい。しかし、今、私たちが生きる現代において、もしかしたら、あの日の徳川幕府と同様に終焉を迎えている、何かがあるかもしれない。
それは、かつての江戸時代の庶民の中でも、最初に尊王攘夷という考え方に気付いた人は、もちろん少数だったであろう。そう考えると、我々の未だ気付いていない物語は、現代にも動き始めているのかもしれない。
そしてその物語の主役であり、革命児達は新しい日本をすでに描いているのかもしれない。
(何か、ただの都市伝説好きみたいになってしまっているが、全くの創作ですのでご了承下さい。笑)
最後に、歴史を学び、歴史上の偉大なる人物達の真似をそっくりそのまま行ったとしても、同じ様に偉大な功績は残せないだろう。言うまでもなく、時代は違い過ぎる。しかし、歴史上の人物達も持っていたであろう、「未来を想像する力」と書いて浪漫は、現代でもしっかりと原動力となり、想像を創造へと変えて、未来を作っている。未来は、今だ!